年末に友人が送ってくれた白洲正子著の『私の百人一首』を三が日に一気に読もうと計画していたけれど読み始めたら一気に読むのが非常にもったいなくなり、じっくりと読み進めることにした。
正子氏が自分の"感触"を大事にしながらそれぞれの歌を解説していくその文章は簡潔で、さっぱりとした言い方と自由な考え方はとても心地がよい。型にはまらなくてよいのだという安心感さえ覚える。
10首目までを読み終えた。
1 天智天皇秋の田のかりほの庵のとまをあらみ わがころも手は露にぬれつつ
2 持統天皇春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふあまのかぐ山
3 柿本人丸あし引きの山鳥の尾のしだりをの ながながし夜をひとりかもねむ
4 山部赤人田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
5 猿丸大夫おく山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋は悲しき
6 中納言家持かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける
7 安倍仲磨天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
8 喜撰法師わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり
9 小野小町花のいろはうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに
10 蝉丸これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
こんなにじっくりと続けて百人一首を読んでいくのは久しぶりである。高校での授業で勉強して以来ではないだろうか。
繰り返し読むと、視覚から入る印象、そして、音から得る印象があいまって広い世界を作りだしているように思う。
蝉丸の歌の解説で、萩原朔太郎の「和歌の韻律について」の文章を引用している中に"音象"という言葉が出てくる。いい言葉だと思う。著者がどんな文を引用してくれるかというのも本を読む楽しみのひとつになる。
正子氏は、朔太郎の文に加えて「…「慌ただしげ」に聞こえるにも関わらず、水の流のように流麗で、静逸なものを感じる。」と解説している。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
再び読み返すと、まさにそういう感じがする。
10首の中では、季節的に山部赤人と中納言家持の
田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける
この二つが心に残り、その風景が広がる。個人的に自然を詠んだものが好きだということを改めて知る。
歌の作者については、柿本人丸のところで「いうまでもなく、彼は万葉随一の歌人で、日には神格化されるに至ったが、その生涯は全く不明である。折口信夫氏の説によると、彼が諸国を歴任したのは、ほかいびと(身分の低い吟遊詩人)と関係があり、必ずしも一人ではなく、大勢の人麻呂がいたと推定されている。蝉丸、猿丸、赤人、黒人なども同じような人種で、実在していたことは確かだが、同時に、架空の人物で会ったという説は面白い。したがって、右の歌も、個人の作ではなく、大勢の人々の合作であったと考える方が、たのしくもあり、大らかな感じがする。古典とはそういうものであり、あまり穿鑿(せんさく)しすぎると、真実の姿を見失うおそれがある。人麻呂のようなつかみ所のない人物は、ひとつの大きな存在、もしくは時代の象徴としてとらえればいいので、王朝人が歌聖として崇めたのは賢明であったと私は思う。」と、「あし引きの…」の解説とともに書かれている。
古典を自由に大らかに読む姿勢が嬉しくもあり、山部赤人などが一人の個人ではなかったと思うとさらに歌の世界に広がりが生まれ、繰り返し読むことの喜びを感じる。
また、その山部赤人の歌の解説の最後には「私がなるべく現代語に翻訳したくないのは、万葉の歌にしても、その改作されたものにしても、言葉の意味より、歌の姿、調べというものの方が、はるかに重要だと信ずるからである。」この言葉に対する感覚は、私も非常に大事だと思う。
『私(わたくし)の百人一首』は、1976年(昭和51年)に書かれたものだそうだ。
2017年(平成29年)に、この本を読みながら私にも「私(わたし)の百人一首」ができていくようで
この先を読むのが楽しみである。