2016年 10月 17日
"流れる"文章と"岩に乗り上げる"接続詞
文庫本のカバーには
"現代日本を代表する詩人"と書かれているけれど
三好達治の詩や随筆はもう古典といってもいいのかもしれない。
この文庫の発行は1990年だから、時代もずいぶん動いたわけだ。
随筆と呼ぶ作品には名文が多いと思う。
随筆はエッセイと同義語と言えるかもしれないが
エッセイという語は、もうかなり使い古されて平凡な言葉になってしまったような気がする。
随筆という方が新鮮で美しく感じる。
気が向いたときに
ひとつふたつと達治の随筆をゆっくりと味わうと
非常に落ち着いた気持ちになる。
季節がら、何度も読みたくなる文章があった。
*
木守り
標題は「きまもり」と読みます。あるいは「きもり」と読んでもいいでしょう、そういう言葉の残っている地方もあります。「果実の時を過ぐるまで木に残されしをいふ」と辞書などには説明が見えます。それによると、果実はさまざまのように考えられますが、これの最も眼につきやすく、つい人の眼をひくのはやはり柿でしょう。昨日も散歩の途すがら(みちすがら)、それが私の眼をひきました。柿の木はもうすっかり葉を落して裸になっています。その梢のあたりにたった一つ、色はもうぎりぎり真っ赤に熟したのが、不注意な忘れ物のようにぽつんと残されています。「木守り」という言葉のように、それはひとり眼を見はって、その木をいつまでも見守りつづけているような風に見えます。先頃まで鈴なりに生っていた無数の仲間は、むろんとり入れ時に残らず収穫されたのです。不注意な忘れ物のように、と先ほど私はいいましたが、「木守り」はそれ一つがうかつに見落とされたわあけではありません。そんなはずはありません。一つだけ残しておこう、というので、ちょうど見頃な位置にそれを残しておいたのに違いありません。それがたいへん私には面白く思われます。忘れ物のように残しておく、裸になった木のてっぺんに一つだけ残しておく、そうしてとり入れを終った人たちはそれをふり仰いで、それでよかったと思い、秋の深くなった青空にぽつんと一つとり残されたその果実を、裸の木ぐるみ美しいものとして眺めたでしょう、と私は推察します。なるほど遠望したところ、なかなか面白く、美しく、つい眼を引かれるのを私は毎年の例としています。
一つ残らずとり尽しては、さすがに柿の木も機嫌を損じて、来年から生り惜しみをして収穫が落ちよう、それでは困るから、あれはお礼ごころに、一つだけ残しておくのだ、という風な説明を、いつか聞かされたことがあるようにも記憶します。この種の説話は、地方によってさまざまな形に今も伝えられているかも知れません。「木守り」はこんな説話のせいで、そのしきたりを失わないでいるのでしょうか。それならそれでかまいません。お礼ごころも、美しいものの一つです。果樹にお礼を忘れないのも、面白いことの一つでしょう。
*
さらさらとよどみなく流れる小川のような文章である。
です、ます調であったり、同じような内容が繰り返されてるせいもあるだろうが
それ、これ、あれ…いわゆる「こそあど」の指示代名詞がたくさん使われていることにも気が付く。
マレでも果実を全て収穫せずに、いくつか残すことはよくあることで
その際にはよく「残ってる実は鳥たちのために」と言う。
木守りは、木へのお礼でもあり、鳥守りでもあるようだ。
ところで、以前、接続詞として使われている「なので」について書いたことがあった。
2012年のことである。
それから4年が過ぎ、「なので」の全盛期は過ぎたようだ。
今が全盛期ではないかと思うように使われているのは、「で」である。
ブログやその他のネットでの文章や友人からのメールの文中にも
この接続詞の「で」がよく現れる。
「なので」「それで」「ところで」「というわけで」「でね」
のような意味で使われていると少しだけ分析してみた。
「で」は、とにかく一語、一音節で短い。
文頭に出てくると、それまで流れていた川に岩が現れて
そこにひょいっと乗り上げた感じに思える。
「で」以外でも、「それ」を省いた言葉「なのに」や「にしても」などもよく見かける。
SNSの登場で言葉はどんどん短くなっていく傾向にあるのが、ここにきてそれがとても顕著になってきている。
また、昨年辺りから、とても目立つようになってきたのが
動物や植物、あるいはなんにでもと言えるかもしれないが、大人が人間以外のものに「さん」を付けていることだ。
「猫さん」「羊さん」「鳥さん」・・・「薔薇さん」「アサガオさん」・・・
「さん」を付けることで、優しさや柔らかさが加わるようにも見えるが
日常会話としての日本語から離れている私には、不思議な感じがする。
伝染するように広まっているようで、それを見ているうちに
私も「イチジクさん」とか「ゴーヤさん」とつい声をかけたくなってしまったので
その影響力はすごいものがあるのかもしれない。
正式な文は別として、話し言葉と書き言葉に境がなくなってきていることも大きな変化なのだろう。
言葉は生きていて、変化していくわけで
それもまた川のように流れていくのだが
現代日本語ならぬ現在日本語から遠く離れ、孤島にいる私には
その流れに飛びこむことはできず
それならそれで、その変化を楽しもうではないかと観察する毎日である。
書くということは、描くと同じように
その時代の空気や作者の息遣いもそこに留めているようだ。
あの頃の空気を感じたいと思ったら、達治の随筆をまた読んでみることにしよう。
by echalotelle
| 2016-10-17 20:30
| 表現されたもの、本・映画など